2015年5月20日水曜日

人類学と先住民:サイドのオリエンタリズム

みなさん、イランカラプテ。ロスリンです。先週は研究発表会があったので、休ませて頂きました。この一週間は発表の連続で、今はとても睡眠不足の状態で書いておりますが、変な漢字や文法が出てきたら、ご了承ください。

今日はちょっと難しい話をします。学術的な用語はなるべく使わないようにしますが、うっかり使ってしまったら、コメント欄に質問を書き込んでくださいね。

この間、お騒がせした金子元議員がいましたね。彼の議論をサポート河野本道という学者がいました。河野先生は考古学、人類学の分野に入っているそうです。
では、なぜ人類学という学問を使って、一つの民族の有無を断定できるでしょう。ここで、ちょっぴり自分の研究発表の内容を使いながら、人類学という学問の一つの側面をお話したいと思います。


人類学って、そもそも他者であるマイノリティ・先住民・部族がいないと存在できない学問です。一つ古からあった人類学の指命とは「おかしい物事を親しく感じさせ、親しい物事をおかしく感じさせよう」ということです。
要するに、異文化である先住民でも、人間同士として私たちの文化と似ているところがあり、私たちの社会を当たり前のように暮らしているが、研究を通してその当たり前の物事をおかしく思うようになって、問いつめるようになることです。

つまり、ご自分の回りの人々、家族、文化、社会、政府、ジェンダー(性別)などを問うようになって、理解しようとして、まるで自分探しのようです。これはあくまでも、この学問の理想で、実現していない場合もかなり多いです。というか、逆効果の時もあって、当たり前だと思っている自分の環境をもっと問わずに当たり前のようにすることもあります。

話を戻りますと、人類学の早期的な論文は大体所謂「未開」社会、つまり現代化されていない社会や文化などの研究が中心となっていました。ここで出来た知識は先住民族に対する医療機関や行政など色々な影響を及ぼしました。

この自分探しのような研究は、鏡のように人類学者にとっての自文化である現代社会の様子も立ち上げられます。その上、先住民やマイノリティに対する行為、例えば植民地支配、を正当化します。
エドワード・サイードという学者が「オリエンタリズム」という概念で、今までの知識は他者を支配するために作られた側面があるということを仰っています。

翻訳されていますから、ご興味があったら、アマゾンで購入できます。とても面白い概念で、西洋国家がオリエントである日本に対する眼差を事例として考えることも出来ます。

とりあえず、他者を見る目はいかに歪んでいるか、とその歪みからできた知識はいかに弱い立場にいる人たちに直面する問題を正当化するかという論文です。

ここまで、鏡とか自分探しとか正当化とか、形のない概念ばかりです。具体的な例をあげますと、時間というものを考えましょう。

ダーウインの進化論がありますね。種の起原を討論する論文で、今はもう問題だらけの理論だと思われています。しかし、当初の人類学も何となく影響されて、現代社会である私たちは進化しつつ、先住民族は止まっている時間にいます。
時間に対して、色々な読み方がありますね。西暦はあくまでもその中の一つなのに、それを普遍にみんなに通用しようとしていました。鏡のように先住民を見ると「昔」と連想し、よって自分は「今」。

この考えは今でもあって、例えばアイヌはいつまでも「昔」であって、私たちは時代とともに変化しつつ「今」にいます。じゃ、「昔」のままでいられないアイヌは何?そして、なぜ変化できないの?

もちろん、サイドのオリエンタリズムを批判する学者がいますし、人類学はすでに変わってきて、もうこんな古い概念を使わないようにしています。話は長くなりますので、また今度ブログで紹介しましょう。

では、よろしくお願いします!



1 件のコメント:

  1. おもしろいなあ!!研究したくなるなあ!!!

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